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第93回 「学芸員」の役割

2016年06月19日

図書館に「司書」がいるように、博物館や美術館には「学芸員」という専門的な職員がいます。

多くの人は「学芸員って何?」「どんな仕事をしているの?」と疑問に思うと思います。確かに「学芸員」という職業は知名度が低く、一般的にあまり知られていません。

では「学芸員」とは何なのか?「学芸員」とは簡単に言ってしまえば博物館や美術館の展示物を製作・展示し、保管・研究をしている人達の事です。よく、博物館や美術館で展示室の前に座っていたりしている人たちを目にすると思いますが、あの方たちは大抵学芸員補か事務員の方で、通常学芸員は表舞台には出て来ません。主に裏方の仕事になります。博物館や美術館にある展示物を表舞台に立つ「役者」と捉えるならば、学芸員はそれを支える、または舞台を作る「スタッフ」と言えます。博物館や美術館に展示されている展示物は、その建物のテーマに合わせて学芸員がセレクトした物ですし、特別展示となると、それは学芸員の研究の成果を発表する場にもなるのです。

特別展とは、期間限定で行われる展示会のことなのですが、これを企画するのも学芸員の仕事になります。先ほども述べたように、特別展は学芸員にとって研究の成果を発表する場でもあります。特別展を計画するのはおよそ一年前かららしいのですが、そのテーマを研究する学芸員が中心となって特別展の企画を進めていくのです。展示物のすぐ側にある長い説明文のフリップを作成しているのも学芸員です。常設展でも同じことが言えます。特に特別展では、学芸員が色々工夫を凝らして展示空間を作っているので、長くて見るのが億劫になってしまう説明文も、少し立ち止まって読んでみると、学芸員の思いが伝わってくるかもしれません。そもそも、説明文と展示物は二つでセットなので、学芸員は観覧客がどういうルートで回ってみるのかを想定して、説明文と展示物を配置しています。展示物だけではなく、説明文やその配置にも、学芸員のこだわりが垣間見えるというわけです。

 

博物館・美術館には必ず学芸員を置くということが法律で決まっています。ここが「司書」との大きな違いですが、どちらも資格が必要な職業なので、資格がとれる大学に行くか、独自に専門知識を学ぶ必要があります。また、学芸員には「博物館実習」があり、これも資格を取る上で必須事項となってきます。

ここまで学芸員の仕事について触れてきましたが、博物館や美術館が生涯学習の施設であるように、学芸員もまた生涯学習の教育者という立場を担っています。学芸員は博物館や美術館に来る学習者のサポートをしなくてはいけないのです。ただ展示会を開く、展示物を紹介するだけではなく、学習者に対してより詳しく展示物の解説をしたり、学習者が学ぶ場を提供することも教育者の役割となってきます。

学芸員は知名度こそ低いですが、博物館や美術館になくてはならない存在です。また、生涯学習という点においても重要になってきます。地域よっては博物館・美術館を生涯学習の場として活用することで、地域の活性化を計っている所もあります。教育の面においても、学芸員は重要な役割を背負っているのです。いかに生涯学習支援の活動に関わっていくか、学芸員という立場からできることを模索していかなくてはいけません。それには、やはり地域との繋がりが大切になってくるし、学芸員そのものの資質も問われてくるのではないかと思います。

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第92回 PHP研修に「青春とは心の若さである」とあった

2016年06月10日

そこには詳しく「まだ年が若いのに、目に光なく、何とはなしに生きているような人がいる。他方、年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続けている人もいる。青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、青春は永遠にその人のものである」とある。

さてこれをもう一度年齢別で考え直してみよう。
10代は学生である。ほぼ知育か体育で明け暮れる。
20代は社会に飛び出し職場で作業を覚えながら、人生目標を作る。
30代は所帯を持ち子を産み育てる楽しさ、大変さを味わう。
40代は社会人として一人前となり、後輩を教える責任と、子供を中学・高校へと行かせながら自分の将来よりも子供の将来に力が入ってくる。
50代は社会人として覚えることがずいぶんなくなり、また一部に役職から外れ、後輩も与えられなくなり、社会的責任も薄くなってくる。また子供も最終学歴を終え社会人として旅たち、家庭での子育てという役割も薄くなった来る。
60代で定年を迎え、いよいよ社会から必要とされなくなり、また子供たちも独立し、自らの心と体の行き場が薄れてくる。
このときに「青春とは心の若さである」という言葉を思い起こし、はたして年老いてなお意気盛んで、はつらつと活動を続ける目標がその時にあるだろうか?このとき私は青春ですと答えられる人ほど人間として素晴らしい人はいないだろう。それは金銭的にまた健康的にも青春だといえるからである。お金がなければはつらつした生活は送れない。健康でなくては気力もわいてこない。だから60代の青春はほとんどの人が味わえないものだと思う。それだからこそ挑戦する意義があるのかもしれない。
庭いじり?庭のない人もいる。旅行?毎月出かけるお金などない。孫の世話。都合のいいときなどそんなにないし、世話というものはあんがい大変である。またそれはあくまで親代わりで青春といえる行動のものではない。絵描き・物書きはどうか?それも趣味としていいだろう。ということは趣味を青春としろということか?趣味が燃え上がる物足りうるのだろうか?「青春とは人様の役に立つ状態では」と私は考えるがいかがなものであろうか?と考えれば日々のつらいこと そうストレスや肉体的悲鳴もそれ自身が青春ではないだろうか?苦しみもがいている反面それは社会として何かしらまだ役に立っている、社会の一員でいられるという実感なのである。社会の一員という枠を取られたら、はつらつなどなくなる。あるのは空虚感・虚脱感・孤独感である。そして死への旅たちか?生きる目的が死へ向かって歩くことになっていく。
だから社会人でいられることを喜びだと考えよう。「今日会社で叱られた」「失敗した」「ストレスたまった」なんて小さいことはなんとか自分で解消してみよう。それこそが青春なのである。生きているあかしなのである。

 

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第91回 人間は他人のことは気になる

2016年06月03日

この間ある人との会話の中で「内の部下は私がやれば1時間で終わることを2時間かかってやっている。しかも質が私よりも落ちる。仕事の勘所というか手を入れるところと、手を抜いてもいいところがわからないのだよ」と言っていた。
次に出てきたのが「最近仕事が少なくてお客様になってもらえそうなところに出向いて話をしている。特別ご注文を取りに行っているわけでは無いが、もしもの時の手を打っているよ」ということだった。
そこで聞いてみた「そのあてになりそうなお客様で、ご注文をもらえたところはありますか」と。すると「もらえたはもらえたがそのお客様も代替わりが始まっていて、以前はよく買ってもらえたのだが若社長になったらあまり用事がないといわれ、もらえたご注文も微々たるもんだった」と返答だった。
それから次に出てきたのが「募集しているのだがなかなか人が来てくれない。また、たまたま来てくれても続かないんだよ」と。考えていることがいろいろありお仕事が大変な様子であった。
自分でやれば仕事は早く正確である。部下がやれば遅くて質が落ちる。これは当たり前のことである。そこで聞いてみた。仮に部下が「言われたことができたらあなたと同じ給料くれますかと聞いてきたら出せますか」と。すると「それは出せんわ」たった。効率を求めるためレベルを上げてほしいと考えるのはわかるが、レベルを求めれば対価も求められるという理屈がわからないのである。
はたまた「暇ならとにかく営業をかけれるだけかけてご注文をめいいっぱい取ってみたらと」聞いてみると「もしやりこなせなくてお客様に迷惑がかかりせっかくのお客様を失うのも嫌だ」と言っていた。
募集にしても「募集するのは何のためですか。人が入ると人件費がかかり、ますます仕事を獲得しなければならないが、教える仕組みと支払う給料原資はあるのですか」と聞くと、それもうやむやなのである。
そこでもう一つ聞いてみた「いろいろと考えているようですが本当の今の課題は何ですか」と。すると結論「わからない」だった。
人間どうしても問題を他に見つけようとする。しかし本当の問題は自分にあるような気がする。自分の目標が定まっていない。仮に定まっていても実行に移すことができない。実行に移しても自分が悪いわけでなく他人のせいにして、結局うやむやになって終わる。
これは自分にも言えることだがやはりまず自らを振り返ることが先であろう。自分に部下があれば当然面倒見なくてはいけない。しかしその前に自分は大丈夫かを常に問いかけていないと。そうでないと自分はできなくていいからお前はできろと言いかけたり、自分と同じことができるようになれば自分の立場はそのうち必要なくなるということになっていく。当たり前のことである。

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第90回 今週から6月はじまる

2016年05月29日

5月はGWで始まった。例年GWは出かけることにしているが年齢が行ってくると徐々に混むときに出かける気が薄れてくる。長いお休みの時こそゆっくり休んでいたくなってきた。
そのGWが終わると本格的に来年度入社の学生さんとの面談が始まった。例年ならば初回面談時に我々から学生さんへの選好をしていたが、今年からは初回は学生さんから選考してもらうように変更し、選考のあった学生さんのみを2次に進めるように変更した。そして2次面談では適性検査と簡単な質問を交えながら学生さんとのコミュニケーションをしっかり行い、適性検査の結果、我々の会社にぜひ入社してもらいたい方には3次面談に移るという具合にした。
例年ならば面接官の私的感情で決めていたが今年からはそれが防げるようになってきた。私的感情は悪くはない。採用した本人がこの人となら一緒にやれると思って採用するのだからだ。しかし人間話だけでは分からない。実際に仕事してみて初めて適性がわかる。例年適性が間違っていたというときもある。それがわかったとき会社側もまた入社した側も後悔することになるのである。どちらも「こんなはずではなかった」となる。だから今年からは私的感情を除いてお互いに判断するように努めている。
さて今週から6月が始まる。6月1日には早速内々定の打診。そして入社前研修も始まる。それは今の流行が「即戦力」という言葉だからだ。即戦力というものは会社からは入社前に学生さんが働きやすい環境を整え、又あらかじめ基礎知識教育をしておきなさいという意味と、学生さん側からは内々定後は学生気分から社会人気分に早めに切り替えて、社会人としての予行演習に入りなさいという意味であろう。そこでアルバイト形式で早めに職場に入ってもらい社会の雰囲気に慣れてもらおうという具合に進んでいく。
いずれにしても今年入社した新入社員が6月から本格的に社会人の役割を果たしてもらう予定でいながらすでに来年入社組の予行演習に入っていくのだから、会社としても気が抜けない日々が続いているわけとなる。社員の中には会社の方針がころころ変わるというものもいるが、、ころころ変わるのではなく当たり前の出来事が当たり前にとらえられないのでころころ変わると取ってしまうのであろう。しかし新入社員とくに最近入社した3期生あたりまでは職場に変化があることが当たり前のように育てているから、ころころ変わるということが当たり前になりつつあるだろう。変わって当たり前なのである。変わらなければ時代に置いてきぼりを食う。現代は立ち止まって考える暇がない。だからGWなど長いお休みの時こそゆっくり落ち着いて今を見つめなおし、リラックスして明日を考える時間にしなければならないと思う。通常の時はなかなか自分を振り返っている余裕がない。それだけスケジュールがあり、予期せぬことが起こってくるのである。まあ言えることはお互いいずれ走れなくなる時が来る。走りたくても世の中が必要としなくなる時が来る。今は後悔しないように、やれるときは思いっきり走り続けるしかない。

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第89回 ダニング・クルーガー効果

2016年05月22日

ダニング・クルーガー効果とはコーネル大学の心理学者ダニングと教え子のジャスティン・クルーガーが発表した効果で「無知な人ほど自分の無知を認識できずそのため自信満々に振る舞う」と言うものです。言い方を変えると馬鹿ほど自信にあふれているということになります。これだけを聞くと恥ずかしい人だと思うかもしれませんが、その自信自体は決して悪い事ではない場合もあります。

例えばあなたが何か新しい事を始めようとした時に何よりも先に多くの知識を入れたがることはありませんか。そういった人の中には学べば学ぶほど「自分の考え方が甘かった」「この程度のレベルでは成功なんてしない」と言うように新しく始めるための準備によって逆に行動するパワーを失ってしまった経験があるかもしれません。もちろん知識はないよりもあった方が良いに決まっています。しかし、行動する前にまず知識をと考えることが行動に移せない原因になることがあります。実際に、世の中の成功者が万全の状態でスタートしたわけではなく、始める前は甘く考えて行動し、行動に移してから大変さを知ったという人もいます。そういった人たちがもし行動を移す前に大変さを知っていたら実際に行動に移せていなかったかもしれません。

実際の例として、「小説家になりたい。そのために小説の書き方講座に通っている」ということがあったそうです。小説家になりたいというのは、つまり書きたいことや表現したいことがあるから小説家を目指すのではと思われます。なので、まず先にそれを形にすることが大切なんだと思われます。ですが、小説家の書き方講座に通うというのは自分の考えを形にすることよりも、上手く文章を書きたい、恥ずかしい文章を書きたくないという思いの表れなのではないでしょうか。実際に小説家を目指したその人は講座が終わるまで作品を作る事がなかったそうです。その後も下手な文章を書いて恥をかきたくないという無意識な恐れからいつまでたっても小説を書き上げる事はなかったそうです。なので、恥をかいてもどんな評価を受けたとしてもとにかくまず始めに作品を完成させ、発表してみる事が今回の話で必要だったのではないかと思います。

勉強などは始めてから並行して行うことができるので、「とにかく何かをする前には知識や勉強を」「万全の準備をしてから始めよう」と考えず、まず行動をしてみることが大切なんだと思います。そしてダニング・クルーガー効果に陥らないために常に学ぶ姿勢を持ち、一般人である自分たちの知識はネットや本から得た物なので偏った知識になってしまうことを理解する事で、自分の無知を正確に認識し、根拠のない自信を裏付けされた本物の自信に変えていくことが大切になります。

福田

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第88回 「司書」の役割

2016年05月15日

生涯学習にとって、図書館は欠かせない施設です。美術館や博物館も学習の場として活用できますが、やはり図書館が一番身近な学習施設になるのではないでしょうか。

図書館では、本の貸し借りが主な業務になります。そして、その業務を遂行するに当たって、「司書」という人がとても重要な人物になってきます。

学校や、公共の図書館には、必ず「司書」がいます。この人に聞けば、探している本が図書館のどこにあるのかすぐに分かります。「司書」は国家試験がある専門職ですが、図書館に就職する時必ずしも資格が必要なわけではありません。資格がなくても就職できるので、図書館に勤務している人を総称して「司書」と呼ぶ場合もあるそうです。

この「司書」になるためには毎年7~9月にかけて全国14大学程度で実施される司書講習を修了するほか、大学・短大で司書資格取得に必要な単位を履修するなどして取得します。

その学習内容に「生涯学習」の内容が関わってきます。図書館を利用する人を「学習者」として捉え、司書はその人たちに情報を提供する。しかし近年では情報のデータ化が普及したおかげで、パソコンに書名や作者を入力すれば簡単に検索できるようになりました。また、図書館同士のネットワークも拡大され、その図書館にない本を、他の図書館から取り寄せたり、データを閲覧出来たりするようになりました。

利用者が「学習者」として図書館を利用する目的は様々ですが、一番は彼らの為に資料を買い集め、情報を提供してあげることです。また、司書は「学習者」が探し求めている情報を整理して、その人に合った資料を提供しなければいけません。「調べたい項目は決まっているが、何から探していいのか分からない」、「一つの分野についてより深い情報が欲しい」等、利用者の考えていることは一概ではありません。だから司書は全ての分野について精通していなければならないし、知識を蓄えておかなければならないのです。

司書の仕事はこれら以外にもまだまだありますが、司書にとって「生涯学習論」は「図書館学」と次に大切な事柄になってきます。それは、「生涯学習者」一人一人の要望に応え、図書館を生涯学習施設として地域に根差していく役割の一端を担っているからです。ただカウンターでじっとしているだけではないということです。裏で図書館資料の選択、発注及び受け入れから、分類、目録作成、貸出業務を行っているのです。このような所は、博物館にいる「学芸員」と似通っている所があります。

図書館は本の貸し借りだけを行っている訳ではありません。読書会や、展示会等を行っている図書館も多いと思います。このような活動でも、「生涯学習」として活用はできますし、気になったことはすぐ調べることができます。情報発信の場として、図書館はこれからもデジタル化、データ化を得て拡大していくと思われます。そのとき、利用者の相談や、アドバイスをするのは、機械ではできません。同じ人でなければせきないのです。その為にも、「司書」という職業は図書館にいるのです。

岡田

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第87回 適性診断を受けてみた

2016年05月08日

2016年度の新規学生募集の活動が活発化してきた。藤榮では1度目の学生さんの会社訪問では人事担当者が藤榮についてどういう会社なのか説明している。
2度目は逆に学生さんから色々と聞きたいこと、言いたいことを言ってもらう場にしている。早ければこの2度目の面談時に「適性検査」を受けてもらうようにしている。
実際に自分も受けてみた。結論は6段階で現れる。1.ぜひ採用したい 2.採用してよい 3.適職あれば採用 4.なるべく採用しない 5.再面接の上採用してもよい 6.再面接してもよいが採用しない方がよい となって現れるが、自分の場合は見事に5であった。つまり人がいなくて困る場合はこの人は採用してもよいという部類だ。また利点や欠点も現され、適正配置予測、戦力化予測も現れる。
自分のことは十分理解しているつもりだが、診断結果は見事に的中していた。結論→「人間的にはいびつである」と現れた。自分が学生なら採用してもらえる会社などないであろう。
今年の採用目的は「組織化だ」そのために強力なリーダーシップの期待できる人間を採用したい。特にリーダーは現場作業のリーダーと今一つはマネージメントを行うマネジャーとあるが、マネジャーを目指すものを採用していきたい。
ではマネジャーはどんな性格でどんな特性か?適性検査的に書けば
1.行動力がある 2.高い指向性がある 3.頭の回転が速い 4.変化対応業務に向いている などとなろうか。
適性検査ではリーダーとボスは違うとも出てくる。実に分析が細かい。
言えることは適性検査の結果はほぼ中学生で決まっているということだ。つまりほとんど親から受け継ぐものと言ってよいであろう。
ということで親が行動的な子供は行動的であり、親が慎重ならば子供も慎重であり、この行動的と慎重は相反する。
また自我力が高いものは協調性に欠け、協調性が高いものは自我力に欠ける。そして、安定性がある者は達成力に欠けるとなっている。
リーダーの素質は社長の性格をよく理解し何を言わんとしているのかを組織にわかりやすく説明し、目的・目標を達成していけるものである。
つまり社長イコール社風が気に入らなければリーダーに向かない。社員の人柄よりも社長の考え方はどうなんでしょうと人事の者に聞くとが最もわかりやすい。
それで入社するか他社にするか判断できよう。

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第86回 新人をトレーニングする流れは

2016年05月01日

作業に関しての新人教育のまず初めは「教育」である。教育とは不足する知識と経験を補うこと。つまり最初は知識から始まる。先輩が実際に作業をやって見せる。そのやって見せていく間に作業をビデオで映しているように解説していくのである。これはこうする、次はこうする、この時の動作のポイントはこうである。ぶつぶつ自分の仕事・作業を解説していくのである。すると自然と後輩も要領がわかってくる。
次は「訓練」実際にやらせてみて隣で先輩は後輩の作業の具合をじっと観察し、具合の悪い点を随時指摘し、もう一度やって見せてるのである。これはしつこいほど自分と同じやり方ができるまで繰り返すのが良い。この繰り返しで作業が正確にできるようになる。 間違っても「急いでやれ」と要求してはいけない。まず初めは「正確さ」を覚えてもらう。それがマスター出来れは次は早さである。何を何分で仕上げるのか。ここから本当の仕事に入っていく。何とか一人前の入口に入ってくる。
そして次に要求することは「準備と片づけ」である。これは別の呼び方をすれば「しつけ」というものである。 誰もが作業ができるようになってくると自分勝手になってく。それでは会社としていや先輩として作業員をコントロールできない。だから次のステップは「しつけ」になっていくのである。「作業の前にはこのように準備しておきなさい」「仕事が終わったらこのように片づけしなさい」まるで親が子供に躾けるがごとく行うのである。「躾とは身を美しくすること」だから徹底的に掃除・片づけ・整理にこだわるのである。このこだわりがない者が躾するとその後輩も躾がなっていない作業員になってしまう。 躾されないものが慣れてくると私は仕事はできると勘違いしだして、偉そうな態度になる。しかし大きな勘違いである。仕事とは責任を果たすことであり、作業さえできればよいことではない。仕事には人間関係や準備、片付けも含まれてくる。これが単純に言うとアルバイトと社員の違いである。社員は仕事の基本であるその会社の文化を学ばなければならない。つまり企業文化=コーポレートカルチャーである。これを学びそして会社がどの方向に目指していて、自分たちはそのどの部分の責任を担っているのかを理解して初めて「仕事を任された」という状態になってくる。 この責任を任されてきた人間ほど心身が練磨され周りから大切にされるようになる。
教える側も覚える側も、まちがっても「作業さえできればよい」と言った考え方は持ってはいけない。

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第85回 製品の組み立て方変更について

2016年04月24日

今まで藤榮では、ミニ・ハーフキッチンを1F、ブロックキッチン等を2Fで組み立てを行っていました。しかし、現在は3月22日より1Fを材料の加工に専念してもらい、全ての製品の組み立てを2Fで行うようになりました。加工と組み立てを1Fと2Fに分けただけでなく、組み立て方についてもいくつかの変更点があります。ミニキッチンに関しては、配線ボックスを取り付ける位置は今まで人によって違いがありましたが、誰が取り付けても同じレベルになるよう冶具を使い取りつけるようになりました。ブロックキッチンに関しては、全てボディープレスを入れるようになりました。吊戸棚に関しては以前からボディープレスをかけていましたが、流し台やガス台についてはボディープレスをかけずに背板を止めていたので背板と側板にズレが生じてしまい製品自体が歪み、扉付けの際に調整に時間がかかる事がありました。そのため、流し台とガス台に関してもボディープレスをかけることで直角出しをすることでより正確な製品の作製を心がけるようになりました。

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そもそも1Fと2Fで加工と組み立てに分けるようにしたのはお客様が藤榮に求めるものが安さから質に変わってきたからです。QFなどの安い製品を取りやめたので製品に歪みがあっても今までのように「安い製品だからしょうがない」と思われていたものが、払った金額に見合う質、より高い質の製品を求めて藤榮の商品を買うお客様が増えてきたので、そのお客様の期待に答えられるように今回のような措置を取ることとなりました。製品の質を上げるためには、組み立ての質を上げるのはもちろんのこと、いくら高い技術を持つ人が担当したとしても良い材料を使わなければより良い製品を作ることなど不可能なので、加工を行う1Fに関してもお客様が求めるものを理解し、今までよりも質の高い材料の作製を心がけていき、生産部全体が今まで以上に高いレベルの仕事ができるよう頑張りたいと思います。

福田

 

 

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第84回 社会貢献と年齢と収入と責任との関係

2016年04月18日

学生が終わり晴れて社会人となる。それが同じところで勤めようが転職していようが、働いている以上社会貢献していることになる。
この社会貢献の度合い、つまり会社への貢献度、別の言い方をすればその組織の責任の度合いによって、我々は収入が決まってくる。
例えば新入社員1年生と2年生は明らかに仕事のレベルが違う。違いがあるから給料が違う。それは1年分社会の経験が多いという理由からくるが5年もすると経験値だけでなくその人の能力によって貢献度=責任の度合いも変わってくる。
能力の違いがあるから収入も違いが現れ、そして社会での序列も現れてくる。
中には「私は責任のある仕事したくない。しかし給料は人並み以上にほしい」という方がお見えになる。
そんな都合の良い会社があれば誰もが喜んでいくであろう。しかしそんな世界は資本主義の世界では絶対にない。
カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した。
若いうちは人生観があまりないのでお金=社会貢献=責任という図式にあまり興味を持たない。しかし所帯を持ち子供が生まれ年齢的に40代半ばにもなってくると、後から入ってきた後輩に抜かれる者もいる。それは先ほどの図式を意識せずに過ごしてきたからである。
40代になればその組織のある一端でも責任を任されていなければ、自分の居り場が不安定になるということは理解しておくべきである。
現代は60歳で定年、その後65歳までは嘱託、その後はアルバイトという形でまたまだ貢献しなければならない。
この社会貢献する時間は伸びたが生涯収入が伸びたのかといえばそうは甘くない。社会では50歳を境に下降曲線を描く。なぜなら能力upがすでに見込まれないからである。これが人生というものである。つまり50歳までにはある程度老後のめどをつけなければ50歳になってもバリバリ働かないと生活ができないという状況に陥ってしまう。
なぜ50歳が境となるのか?それは子供もそれぐらいになれば義務教育が終わる年齢になっているからである。それ以上の教育を受けるならば家計との相談となる。自分の社会的責任遂行能力はあるのか?当然子供も能力というものが要求され良い能力の持ち主ならば公立・国立に進学もするが、そこそこのものならば私立に行かざるを得ない。すればお金は多大に必要となりまたまた家計が苦しくなる。こんなこと就職する前にわかっていることである。だから就職したら頑張り抜き、競争に打ち勝ち、社会から責任を分担してもらい、収入をより稼がねばならないのである。これが人生観=人生設計である。
50歳になって職場移動になり、仕事の内容も楽になり、新入社員並みの仕事しか責任として与えられなくなれば、それが社会からの評価である。この時にでは時遅しである。

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過去の日記

TEL
0562-93-5561

株式会社 藤榮

〒470-1144
愛知県豊明市阿野町稲葉74-46

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